ちょっと諸々調べる必要があって、個人的なメモ(更新中)。
日本でインターネットが商用解禁されたのが1993年。
プロバイダーはIIJだったが、接続料が高く、高嶺の花というか、個人にはあまり関係のない世界だった。
そのCD-ROMは高城剛のプロデュースしていたフランキー・オンラインというもので、仮想空間(島の中に街がある)で、街の郵便局でメールを送ったり受け取ったりで、いま思えばまどろっこしい仕組みで、パソコン通信にインターネット接続のオプションがついたようなサービスだった。
NetScapeがそのCD-ROMにバンドルされておらず、当時使っていたMacにもインストールされていなかったので、インターネットを見られなかった。そもそもネットにつながらないので無料のダウンロードで入手も出来ず。
そのため秋葉原にて5000円程度で購入した覚えあり。当時はNetScapeも1.4Mbの3.5インチフロッピーに格納できるサイズだった。
数か月後フランキー・オンラインに見切りをつけ、ベッコアメと接続契約。(ダイヤルアップIP接続)
メアドが1つ付与された。初年度費用1万円+接続料年間2万円(合計3万円)。
契約はしたが、接続方法などはパソコン通信でベッコアメのBBSに接続して入手しなければならないほど面倒で、Macで接続設定をする際も「MacPPP」というソフトが必要だった。
またオフィスでFAX回線の電話線を引っこ抜いて 12,800bpsか14,400bpsのモデムを繋いで接続していたため、外部からFAXが話中とお叱りを受けたり、通信費(電話料金)もバカにならなかった。
Web制作環境は、HTMLはMacのシンプルテキストかWindowsの秀丸を使用。教材は翻訳もののHTMLガイドを利用。HTMLは、H1、H2、H3やBlockquoteなど、論理系のタグはあった。Tableもあったが横幅・縦幅指定はできなかった。
font sizeは1(最小)から5(最大)までしか指定できなかった。
当時、ベースカラーは無指定だと、NetScapeではデフォルトで背景はグレーになった。のちに出てきたIEも同様にデフォルトはグレーだった。フォントカラーは全体に対して指定は可能。Bodyタグに指定を入れた。
使える画像はGIF。当時はCompuServe gifという言い方もあった。CompuServe 社のフォーラムで提唱されていた名残り。JPGは使えなかった。
また、透過GIFを作るにはPhotoshopではできず、transparencyという無料ソフトを拾って来て使った。無料ソフトやNetScape.1はソフトバンクが発行していた『MacUser』や『Internet User』という雑誌の付録CD-ROMには入っていた。
『MacUser』は日本で最初のCD-ROMが付録についた雑誌だったと、編集部の方から直接聞いた覚えあり。
まだWeb制作のデザイナーは認知されておらず、制作畑とかエンジニア、非エンジニア関係なく、HTMLを覚えた人が先にホームページを作っていた。
なお、エロサイトが見たければ米国Yahooで検索(Naked Japanese)とかで検索するように誰かに教わった。その後、ベッコアメの会員ページがインターネットエロバイダーと呼ばれるほど、アダルトが集まった時期があり。当然、摘発のニュースもあった。
同年4月、yahoo!Japanがスタート。
左右幅は500pxに満たなかった。
以下の画像は初期のyahoo!japan(原寸)
640×480のモニターが主流の時代だったが、ホームページ制作時、左右幅を決める時、NetScape社のホームページの左右幅を意識して作っていた。定かではないが、NetScape社のホームページは左右540px程度だったように記憶している。
この左右600ピクセルに満たないホームページに載せる情報量は、1ページあたりハガキ1枚程度しかないようなもので、ページあたり50kとか70k以内に納めなさいといった規定も一部企業で聞いた覚えあり。
同年、オフィスにwwwサーバを置き、インターネット専用線を引く。
専用線は当時、デジタルアクセス64(その上が128)というもので、NTTの接続料は6万円/月程度だった。
サーバはDEC。WindowsNTにMS-SQLを入れた。
ブラウザを立ち上げるといつでもネットが見られたため「常時接続の世界」という言い方をしていた。
またNTTでOCN接続が登場し、中小企業や小規模オフィスで導入が進みはじめた。
そのため、(のちのCSSコーディングが普及するまで)大きさや配置がブラウザに依存してしまうH1、H2といったタグやBlockquote、DL等の定義タグなどは影を潜めた。
この頃、ようやくWebデザインもやります的なグラフィックデザイナーも増え始めてきていたが、Webデザイナーという職種はなかった。
デザインもコーディングも「ホームページ制作者」としてひとくくり状態で、分業もなかった。
(ひと休み)
23時過ぎに「ダイヤルアップ接続」して「ネスケ」の最新版で「ネットサーフィン」で訪問された方ですか?
「アクセスカウンター」が「キリ番」だったらぜひコメント欄に「カキコ」してくださいね。
それが「ネチケット」ってものです。
嫌なら帰りに「ブラクラ」踏んでください。
また、W3Cが1998年、氾濫するTableコーディングに歯止めをかけるべく、文書構造とデザインを分離させることを目的に提唱したスタイルシートコーディングを提唱するが、その後何年にも渡って「笛吹けど踊らず」状態が続く。
なぜならば、CSS化するメリットが当時希薄だったことと、各ブラウザが対応(実装)にばらつきがあったためだったと記憶している。
またJavascriptは少しずつ認識されて「小技」としては使われたが、IEが遅れをとったため、導入に活発ではなかった。
ベンチャー企業群が好んで「.com」ドメインを使い、「.com」ドメインが氾濫。
画像フォーマットとしてJPGが登場。
2chが開設。
東京めたりっく通信(DSL接続サービス)と契約したが、短命に終わる。
アフィリエイトに関連する受注案件が出始める。
いわゆるランディング用の特集ページ制作依頼。
バリューコマースが1999年、A8が2000年、リンクシェアが2001年に日本でサービスを開始したことが要因。
Google日本語版が9月に公開。
リヤカーを引いて秋葉原近辺で段ボールを集めるリサイクルおじさんも、YahooBBのモデムの袋を持っていた。
ホームページにXMLという書き方が一部で採りあげられ、XMLによるWebページの記述を試みるサイトがあったが、検索エンジンに弱いということなのか、記述が難解というか厳格(ちょっとミスっただけでブラウザにまったく表示されないためか)流行らず。
Googleが話題にはなるが、ブラウザを立ち上げると、PCユーザーの9割方はYahoo!サイトをポータルにしている時代が続いていた。
そのYahoo!Japanも2001年~2004年までGoogleの検索エンジンを採用。
(yahoo!Japanは2010年にもGoogleの検索エンジンを採用し現在に至る。)
(制作会社によってはもっと前からだろうが・・)
当時はデザイン・レイアウトの手書きサムネールや構成図はあっても、掲載要素の確認・配置案といった目的のワイヤーフレームの概念は、ほぼ無かった。
個人差はあるが制作者がGoogleを強く意識し始めたのがこの年あたりから。
それまでは関連サイトからのリンクとyahooディレクトリに登録しておけばOK。あとは静かに待つのみ、といったレベルだった。
Googleの収集ロボットにとっては文書構造が無視されたTableコーディングより、W3Cが提唱する「文書構造とデザインの分離」が適しており、サイト構築側(制作側)にとっては検索順位に影響することが(スタイルシートコーディングの)最大の推進力になった。
ただし概念的な意味合いが強く、フェードアウト気味に消えていった感あり。
Googleのサイト評価(ページランク)が被リンクによるもの、つまり良いサイトは多くのリンクを受けている。さらに良いサイトからのリンクは高評価といったアルゴリズムを意識したSEOがもてはやされはじめる。
しかし、サイトの導線やアクセス解析による構造的な改善を促すコンサルテーション的なビジネスとは別に、「被リンクが多いサイトは検索順位が上がる」というロジックに注目・特化した外部SEO施策を請け負うビジネスが生まれた。
そのビジネスの一部は後にワードサラダに象徴されるようなスパムサイトやスパムブログを氾濫させたが、それなりの効果があってか、主に中小企業系のECサイトを中心に支持された。
このスパム手法を中心としたSEOは、のちにGoogleがパンダアップデート、ペンギンアップデートを繰り出すまで続いた。
またこの年、GoogleMapでAJAXがお目見え。
今までは何か要求するたびに一旦Submitを押してサーバと交信し、ページが再読み込みされているところが、Ajaxで(ページを更新することなく)読み込みが更新されていく様は画期的だった。
時間があるときに続きを書きます。