テレビドラマ『砂の器』と小説の原点であったハンセン氏病の話。

先月(2019年3月28日)フジテレビ開局60周年特別企画で、松本清張原作の「砂の器」が放送されました。

このドラマのキャストは今西刑事役に東山紀之、犯人の和賀英良に中島健人、和賀の愛人に土屋太鳳といったキャストで、3時間弱の1話完結モノでした。

私はこの「砂の器」に関しては、映画「砂の器」の丹波哲郎(刑事:今西 栄太郎)、加藤剛(犯人・作曲家:和賀英良)が邦画の最高峰と勝手に思っているぐらいのファンというか、ある意味フェチというか、私の大好物なコンテンツなのです。

唯一、映画の欠点は、現千葉県知事の森田健作が若い刑事役(吉村刑事)で下手な演技をしてしまっている点が玉に瑕でした。

さて、このフジテレビに限らず、他局で過去に放送された「砂の器」のドラマについても同様ですが、原作を現代劇に持ってくるための工夫、つまり和賀英良(本浦秀夫)の父親の、原作ではハンセン氏病のところを、どう脚色、潤色するかというのが1つの課題で、少なからずドラマの出来・不出来はその出来栄えにかかっていると思われます。

結局、このドラマでは父のハンセン氏病は兄の連続幼女殺人と父親の傷害致死事件に置き換わっていたわけですが、やはりその後の父と子(和賀 英良/本浦 秀夫)の試練の逃避行の旅を裏付けるには厳しかったですね。

原作ファンにとっては、原作に忠実なほど受け入れられ、脚色がキツイほど、ダメ出しをしがちですが、私ぐらいのフェチになると、そこはどう処理(脚色・潤色)したのか?という視点で見ています。

あと、中島健人演じる和賀英良も残念ながら物足りなかったですね。

和賀英良は暗い過去を持ち、口数も少ない天才作曲家で、セリフ自体は多くはないのですが、半ば冷酷風なイメージの反面、罪に対する葛藤や創作活動の苦しみなど、演技力を発揮するシーンはもっとエモーショナルでいてほしかったなあと。

本浦千代吉に関しては脚本上での存在感薄かったですね。役者のせいではないでしょう。

映画の本浦千代吉が、和賀英良を「おら、知らねえだ・・」と泣き崩れるシーンは、映画ファンにとっては最後に涙を誘うところですが、つい先月見たはずのフジテレビのドラマでは全然印象に残っていません。

砂の器のドラマと言えば、2011年9月にテレビ朝日系列で2話完結であったのですが、実は私は見逃しています。
それについては見ていなかったのでなんの感想もないためスルーします。

しかし、2004年にTBSで全11話で完結する「砂の器」は鮮明に覚えています。

これは先日(2019年4月20日)TBS「ジョブチューン」で平成テレビ史ドラマ&バラエティランキングという放送がありましたが、19位になってましたね。

音楽はドリカムの「やさしいキスをして」 でした。
せつない歌声が合っていたと思います。

今西刑事に渡辺謙、和賀英良に中居正広という配役でしたが、さすがに全11話でしたので、さまざまな潤色が加えられていました。

これも原作を愛する方々から見れば不満の1つになるかもしれませんが、そもそもドラマ化にあたっては原作に忠実にすればいいというものでもなく、私は意外に満足しています。

このTBSのドラマは和賀英良(中居クン)が完全に主役として1歩前に出ていましたし、中居クンの演技は同じくTBSの2001年に放送された「白い影」で見て「ジャニタレだから期待してなかったのに(失礼)すげーうまいじゃん」と感心していました。

また、父親のハンセン氏病に関するところは、父親への理不尽な差別から父親が起こした大量殺人となっていましね。

前述したとおり、和賀英良が名を変え、過去を隠した理由をどうするか、という点。

現代に置き換えるテレビドラマの大きな課題であり、なぜ本浦千代吉親子が放浪しなければならなかったか、という点の「原点」にあたるところです。

原作では本浦千代吉を「らい病(ハンセン氏病)」の発病と差別によって村を出て行かざるを得なかったとし、当時の日本の負の現実をとりいれていました。

「2004年版」のTBSテレビドラマでは、そこが本浦千代吉の犯した(差別に起因する殺人)犯罪逃亡としており、和賀が他人の戸籍を自分のものにできたところも、原作の「戦災」がドラマでは「自然災害」となっていましたが、これは少し説得力に欠けてしまいました。

現代版では「戦災」も「ハンセン氏病」もそのままでは無理があるのはわかります。

また松本清張が現代に生きていて「砂の器」を書いたならば、そこはどのようなことになっていたのか?
ひょっとしたら、ハンセン氏病患者への差別という現実がなければ、松本清張の「砂の器」は生まれていなかったのか?

そんなことを想像しつつ「2004年版」のテレビドラマは、そんな風に観ていました。

さて、次に「ハンセン氏病」について、まず1つはっきりさせておくべきことから書こうと思います。

ハンセン氏病はかつて「らい病」と呼称されていました。症状は皮膚が侵され進行すると身体の外形に変形をきたすこと=外見の問題と、病気そのものに対する正確な知識が乏しかったため、発病すると古来より差別の対象となった歴史があります。

Wikipediaによると、

ハンセン病について、医学的に確立している知見は、以下の通りである。
・ハンセン病は遺伝しない。
・ハンセン病は伝染病ではあるが、その感染力は弱く、感染してもごく稀にしか発病しない。
・たとえ発病しても、初期の状態であれば、経口の特効薬で通院治療によって完治できる。

というのが、現代の知見です。

Wikipediaではさらに

らい菌の感染力は非常に弱いため、らい菌を多く保有している人との乳幼児期に継続的かつ多頻度に渡る濃厚な接触による以外はほとんど発病に至らない。さらにらい菌と接触する人の95%は自然の免疫で感染を防ぐことが出来る。小児期以降の感染による発病は近年では認められていない。潜伏期間は数年から数十年という幅がある。
現在、全国13か所の国立ハンセン病療養所と全国2か所の私立ハンセン病療養所(神山復生病院・待労院診療所)に約3,100人(3,079人・2006年5月1日現在)が入所している。ほとんどがすでに治癒している元患者である。平均年齢77.5歳(80歳以上の高齢者が全体の38%、70歳以上が80%)である。

とあります。
これだけ感染力が弱い病気。しかも完治している元患者さんは、残念ながら、ほとんどが半強制的に隔離され、遺伝病でもないのに断種・堕胎手術を施され、辛い生涯を終えようとしている人々だといえます。

実際、ハンセン氏病が解明され、特効薬(プロミン)も開発され、隔離の必要性がないとわかった後、1996年の「らい予防法廃止法」の成立まで、国は元患者の人権を侵害し続けたといえます。

ネットで、国の責任を追求したハンセン氏病訴訟を検索すると、下記の元患者の記事がありました。

2017年10月にご逝去された元ハンセン氏病患者の日野弘毅さんの、当時首相であった小泉純一郎氏への手紙

 私は鹿児島県の星塚敬愛園から来た,日野弘毅です。昭和24年11月29日,16歳で入所して以来,ずーと療養所の中におります。
総理,私にも,愛する家族がありました。父亡きあと女手ひとつで育ててくれた母,年頃の姉と,幼い弟,妹。かけがえのない家族でした。
 昭和22年の夏,突然保健所のジープが,やってきました。私を収容にきたのです。
 しかし,母はきっぱりと断ってくれました。
 ところがジープは繰り返しやってきました。
 昭和24年の春先,今度は,予防服をきた医師がやってきて,私を,上半身裸にして,診察したのです。そのことが,たちまち近所に知れ渡り,その日から,私の家は,すさまじいまでの村八分にあいました。
 突然,誰ひとり,家を訪ねて来なくなりました。出会っても顔をそむけます。よく世話をしてくれた民生委員さえ,来なくなりました。
18歳だった姉は,婚約が破談となり,家を出なければならなくなってしまいました。小学生の弟は,声をかけてくれる友だちさえいなくなりました。心の優しい弟でした。
 その弟が,ある日,学校から帰ってきて,かばんを放り投げたかと思うと,母にとびかかり,その背中を拳でたたきながら
「ぼく,病気でないよね。病気でないよね」
と,泣き叫んだ姿を,今も忘れることを忘れることはできません。
 そんな,仕打ちにあいながら,母も,弟も,私に,療養所に行けとは,言いませんでした。しかし,私は,子どもながらに,このまま家にいれば,みんながだめになると思い,自分から市役所に申し出て,敬愛園に入所しました。それなのに,家族の災厄は,やみませんでした。
 私は,帰省するたびに,村八分をおそれて住所を変える母の姿を目の当たりにし,断腸の思いで,帰省することを,あきらめました。
それから20年あまり,母が,苦労のはてになくなったときも,見舞いに行くことも,葬儀に参列して骨を拾うことも,かないませんでした。
 18の時,家を飛び出した姉は,生涯独身のまま,平成8年,らい予防法が廃止になった年の秋に,自殺しました。遺書に,私にはすぐに知らせるな。初七日ごろに知らせるように。と,書いてあったそうです。この遺言のこと,姉の自殺のことは,母の死以上に,私を打ちのめしました。らい予防法の廃止は,法律のために人生をメチャクチャにされた姉にとって何一つ希望をもたらすものでなく,絶望させ,自殺するまでに追いつめたのです。
 姉の思い。母の思い。いまだに配偶者に私のことを隠している弟,妹の思い。そのために,私は,訴訟に立ちました。判決の日,私は次の詩を作りました。

太陽はかがやいた
90年,長い長い暗闇の中
ひと筋の光が走った
鮮烈となって
硬い巌を砕き
光が走った
私は,うつむかないでいい
市民のみなさんと 光の中を
胸をはってあるける
もう 私はうつむかないでいい
太陽はかがやいた

 総理,私ひとりではありません。全国4400名の入所者,そして退所者,すべての元ハンセン病患者が,待ちに待った,判決です。
私たちが,胸を張って歩くことのできるあかしです。これを取り上げることを,許すわけにはいきません。
総理,今,決断しなければ,第二,第三の 姉を生み出すのです。
控訴しないという,約束をしてください。

確かに、裁判では元患者側が勝利しました。
しかし、それでも彼らの失った年月は帰ってきません。

2003年、アイレディース化粧品の経営する「黒川温泉ホテル」が、元ハンセン氏病患者団体の宿泊を拒否した問題が報じられました。

その際、ホテル側は「他のお客様との調整を取る時間がなかったのです」と言っています。

これはどのような調整なのでしょうか?皮膚に醜い病跡がある人が大勢来ますので予めご了承ください、とでも言うのでしょうか?それが広島・長崎の被爆者の団体ならなんと言うのでしょうか?

さらに、biglobeのBBS(今はない)では、こんな残念な書き込みもありました。
※私が別のブログで書き留めていました。

従業員の方はとても優しく、アットホームで良い宿でした。
なので、今回のハンセン氏病元患者らの横暴には腹立たしいばかりです。(天の声)

見た目がオバケみたいでキモイ。
そんな人が入った温泉なんて、害がなくったって入りたくないよ、普通。(あゅ)

こういうエゴや悲しい発言をする方も、16年前(2003年)には居たのです。
もはや(あゅ)氏の書き込みに至っては、人としての理性があるとは思えません。

確かに、ホテルは客商売ですし、こういう人々の目も怖いのでしょう。
しかし、経営責任者の判断は決して擁護できるものではありません。
またホテル(差別者)を擁護するのは残念ながら決まって差別者であり、また論理をすりかえてしまう人々だったりします。

ハンセン氏病元患者らの横暴とはなんなのでしょう。
2ヶ月前にわざわざ「元患者」ですと申告して予約する義務なんて先進国にはどこにもありません。
断わって良いのは反社会的勢力だけのはずです。

ハンセン氏病はいまや普通の慢性感染症として扱われ、治る病気となりました。

それは病気(患者)への治療ができるようになっただけで、差別思想がなくなった、というわけではないと思います。

前述した「天の声」「あゅ」という人たちは少なからずいるはずです。

差別の根幹は、まず「無知」から来ていると思います。
そうならないためには、正しい知識、モラル、そして「勇気」も必要なのではないか、と思う次第です。

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