申し訳ありませんがこの投稿は2006/1/12(木) に書いた非常に古いYahooブログの記事(少々修正済み)です。
Yahooブログが2019年に閉鎖となり、個人的に記録として残したく、移設しました。
2005年12月18日朝日新聞東京版の記事に、ちょっと目を引いた記事がありました。
それについて、年末から投稿しようと思ったことがあり、書いてみました。
少々長文ですがお許しください。
朝日新聞[【泉麻人の東京版博物館】地の塩の箱] 記事は昭和33年の紙面紹介から始まりますが、その部分を引用します。
▲昭和33年7月15日の紙面▼
銀座尾張町交差点の交番に十四日ひる「地の塩の箱」が備えつけられた。黄色いペンキぬりの小鳥の巣箱みたいな粗末な箱だが「み心の天の如く地にも行われんことを」と聖書マタイ伝の言葉が引用されてあって「電車賃その他少額の金にお困りの方は、この中から自由にお持ちください」という義金箱。一昨年夏、千葉市羽衣橋のそばに第一号の箱が設けられて以来、職業安定所の近くや国鉄の駅など全国各地にふえ、これで百五十三個目。
泉麻人のコラムは、この箱で助かった高校生が活動の輪を広げたエピソードも追記しています。
さらに「地の塩の箱」の設置が最盛期には731箱となったが、昭和54年、詩人江口榛一氏の他界以降、いまでは新京成線前原駅(千葉県船橋市)に1個残るのみとなった、と書かれて、「血も涙もないニュースが続く師走、ホッと心があったまった。」という言葉で結ばれていました。
でも、「地の塩の箱」は、本当に心あたたまるエピソードだけだったのでしょうか?
「地の塩」というキーワードで、とあるWebページがヒットしました。(いまはNotFoundです。)
『昭和の根っこをつかまえに』 第3回「地の塩の箱」の巻] (北尾トロ)
ここのページに、江口氏が「地の塩運動」をはじめるきっかけが記されていました。
時代は昭和30年代初頭に遡る。日本はまだまだ貧しく、日々の食費にすら困っている人がめずらしくなかった。高名な詩人だった江口秦一氏が、昭和のドンキホーテとなったのは、知人一家の絶望的な生活を目の当たりにしたことがきっかけだった。
その家族は、父親が工場で必死に働いても食べていけず、娘が親に内緒で売春をして家計を助けていた。そのことが親に知れ、絶望した娘が自殺したのだ。
マジメに働き、つつましく暮らす親子が、なぜこのような悲劇に襲われなくてはならないのだろう。
こんなひどい世の中でいいはずがない。熱心なクリスチャンだった秦一は、なんとかしなければと奮い立った。そこで考えたのが、富める者から富まざる者へ、善意の輪で金の流れを創り出す「地の塩運動」の提唱である。
娘が親に内緒で売春をして家計を助けていた・・・まさしく昭和の貧しい悲劇です。
そのような猛烈な思いに突き動かされて提唱した「地の塩の箱」は、なぜ衰退したのでしょうか?
私も総武線錦糸町駅で「地の塩の箱」を見かけて以来、箱を見た記憶がありません。
衰退の直接的な要因は、ずばり「仕組み」にあるのだと思います。
お金のある人が箱に入れ、困っている人が取り出す。富める人は常にお金を入れるとは限りませんし、困窮者は箱にお金があれば、多くの人がその全てを持ってゆくでしょう。
次に箱を開けた人は助からないのです。
ある意味、このような誰も管理しない街の相互扶助システムは、完全に性善説に基づいているといえます。
善意も、それを必要とする人に届かなければ、ただの自己満足と言われても仕方ありません。
しかし、どう届けるかといった策をめぐらす「システム」を考えるより「信仰」が先だったのでしょう。
この相互扶助活動を考え出した江口榛一氏は、詩人でありカトリック信者。信仰にもとづき思ったことを自己犠牲的にしただけで、相互扶助活動の維持には深く疑問は湧かなかったのでしょう。
活動初期はマスコミに取り上げられ、賛同者は一時的にせよ増えていったものと思われます。同時に箱の数も増えていきました。
しかし、残念ながら段々と「地の塩の箱」はその機能を失ってゆきます。
いつ箱を開けても、空。
江口榛一氏は借金を重ねてまでも、箱にお金をいれてゆきます。
そして極貧生活が始まったとされています。
そして娘の自殺、妻の病死。江口氏は生活保護を受けて自らを助けようとはしませんでした。
箱にお金を入れられなくなった生活の中で、彼は日記に記しています。
地の塩の箱運動も私もすでに死者なのだ・・・と。
最後に江口氏自身が首つり自殺。
自殺を禁じられたクリスチャンの江口氏の自殺(1979/4/22)は、 彼の日記を見る限り]発作的ではない。
救われるあてのない貧しさに追い詰められたのでした。
いったいなにが彼をそこまで追い詰めたのでしょうか?
「あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」というような、聖書の言葉どおりだった江口氏。
私の浅はかで勝手な想像ですが、彼は純粋に1箱の「地の塩」であり続けたかったのではないか。
彼の意思はどうだったのかわかりませんが、賛同者とともに箱は増えてゆきました。
新約聖書マタイによる福音書5章によれば「地の塩」は「あなたがた」であり、1人ではないのですから、「地の塩」の活動が広がることに異存はなかったはずです。
しかし、結果として「地の塩の箱」は彼個人の責任による、彼だけの孤独な活動だったのかもと、思えてなりません。
このような「地の塩の箱」相互扶助活動の効果や制度の是非は別として、どうしてThe salt of the earthたる詩人江口榛一氏を見捨てるような社会なのか・・。
心があったまったという朝日新聞のコラムとは裏腹に、センチメンタルにも悲しい気持ちになりました。
あなたがたは地の塩である。
だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。
もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
(マタイによる福音書5章13節)
この時代に生きる「地の塩」たる私たちは、塩気が乏しすぎるのかもしれません。
【追伸】
The salt of the earth.(地の塩)は英語の慣用句となっています。
検索してみると、別の意味がわかります。
私もこのブログのプロフィールページでも言及しています。